自分を表現するということ

私は中学生くらいの頃SF小説を読むのが好きで、SF作家になることに憧れていた。

そんな才能はないことがだんだんわかってきたので、SF作家になることは考えなくなっていったが、それでも文章を書いたり何かを表現することに対しての憧れは継続してあった。

若い頃は自分に表現者としての何らかの才能があるように妄想していたが、実際に文章を書いたり作品を制作したりすることはなく、ただ「自分には隠れた才能がある」と根拠もなく考えていた。

こんな感じの若い人は割と多いと思うが、何か文章を書いたり作品を完成させることは実際はものすごく地味で根気を要する作業で、多くの場合そこまでの根性がない。

作品を完成して、発表したらしたで今度は他人からの厳しい批評にさらされることになるし、成功できるのはごくごく限られた人しかいないので、よほど自分の才能に自信があるか好きでたまらない人しか続かないだろう。

そんなに苦労するより、「自分には隠れた才能がある」と思っていたほうが傷つかなくて済むし、根拠のないプライドを保つことができる。

ネットの書き込みサイトを見ると、そんな感じの一段上に立って人を批判するようなコメントだらけだ。

私が若い頃に、文学を志してたが、作家にはなれず実業に携わり、税務に関する本を出版した人の話を聞いたことがある。

その人は小説の出版をすることはなかったが、「税務の本を出版できてある程度自分の思いを遂げることができた」と言っていたそうである。

それを聞いて私は不遜にも、「税務の実務書を出して満足するなんて、文学者になりたいという本来の志からすれば情けないことだ。小説を書いて芥川賞でもノーベル文学賞でも狙うべきだ。」みたいなことを考えていた(今思うと本当に余計なお世話である)。

でも今こうしてブログを書いていて、その税務の本を出した人の気持ちが分かるのである。

実務書であってもそれを出版するためには、仕事で実績をあげたり、情報収集したりする必要があるし、他人に認めてもらわなければならないのでそんなに簡単なことではない。

ブログを書くことだって、継続するためには常にネタを考えたり情報収集が必要で、まあ好きで勝手に始めたことではあるが、怠け心に打ち勝って書き続けるのはそれなりの努力や工夫が必要だ。

小さなことであっても、自分なりの努力や工夫をそこに注ぎ込むことができたなら、その成果に愛着や自己満足を感じるというのは健全な精神的態度だと思うのである。

私たちがこの物質世界にやってきた目的は、体を道具として自分の思いを形にすることなのではないかと思う。

それは別に芸術作品に限らなくて、ビジネスで成功したり良い家庭を作るということなど、自分が実現してみたいことなら何でも良いのだ。

プレゼントという言葉は贈り物と言う意味もあるし、現在とか存在しているという意味もある。

自分の心の中を表現して形に表すこと、それが世界と自分に対するプレゼントでもあるし、自分が存在することでもあるのだ。

できることならそのプレゼントは、「自分には本当は隠れた才能がある」と言いながら何もしないで自分の人生を不満に思っている状態ではなく、不完全かもしれないが自分なりに努力工夫して形にしたものでありたいと思うのである。

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